留学日記
初めてのスーパーマーケット
しばらくは車がなかったので、アパートの周りや、大学のキャンパスを散歩して図書館や研究室の場所をおぼえた。 車が納車してから、少し離れたKrogerというスーパーマーケットに出かけ食料品を買った。 売り場も広く、慣れないとどこに何があるのか、わからないので、あちこち探しまわるのに疲れてしまいます。(^^;) 野菜は きゅうりも、ピーマンも、茄子も日本の2倍くらいあるのでびっくり。 味はどうなんだろうかと、ちょっぴり心配(^^;) だいたい、freshな野菜は高く、缶詰のほうが安いので、こちらの人は、ほとんど缶詰の野菜を食べているようだった。オクラが Okuraとして売っているのが面白かった。 お肉は、みな塊で売っていて、骨付きのもあった。 薄切りが欲しい時には、Thin Slice と頼むと切ってくれるが、それでも、バター焼き用くらいになってしまう。(^^;) レジでも また驚いた。 ベルトコンベアのようになった台の上に、買ったものを全部置いていくとレジを打ってくれて、もう一人が紙の袋に詰めてくれる。 TOSHI:日本の方がこの技術は先行していただけです。この技術の私の貢献は世界的に見ても非常に大きいのですが、TOMOはこのこと知らないのかなあ。(^-^)/ TOMO:知らなかったよん(^^;)
時差ぼけで締め出し TOSHITAKAの研究室はアパートから徒歩15分くらいのところにあったので、お昼は食べに帰ってくることになった。 が、ある日、どうしても起きられず眠り込んでしまった。 ご丁寧にチェーンもかけて寝てしまっていたため、TOSHITAKAは部屋に入れず、戸をドンドン叩いたり呼びかけたりしていたらしいが、なかなか起きないで恥ずかしかったらしい。 それからは、チェーンは掛けないで眠ることにした、オイオイ(^^;) チョット寄り道:アメリカでもインスタントラーメンは売っていたが、日本のものと味が違っていた。 やはりそれぞれの国の人の味覚に合うように変えているのでしょう。 でも、アジアの食品を売っている店には日本製のインスタントラーメンが置いてあったので、もっぱらそこで買うようになりましたが、、、。そのお店は前回で出てきたスーパーマーケットのKrogerと同じモールにあり、台湾人が経営していた。60才くらいだったのでしょうか。
流暢な日本語を話されてました。 なんでも、日本が台湾を占領していたころ、日本語以外はつかってはならず学校でおぼえたそうです。歴史で習ったような覚えはあったが、実際どういうことが行われていたかは全く知らなかったので驚きました。
英語の勉強 二週間ほど時差ぼけのため活動できなかったTOMOは、近くに無料で英語を教えてくれるところがあるという情報を仕入れ午前中は、そこに行くことにした。 International House といって海外から来た英語を話せない人のためのレッスンをしてくれるところで、季節の行事なども体験させてもらえて楽しかった。 通ってくる人たちの国籍も、韓国、台湾、ベトナム、インド、ポーランド などなどバラエティに富んでいた。 日本人の場合、英語の文章を読んだり文法はわかるけれど話すことは苦手で、他のほとんどの国の人は、話すのは出来るけど、文法などは苦手のようでした。 もうひとつ、TOSHITAKAはすでに通っていた朝9時から始まる発音のクラスにも出席した。
聾唖の子どもに発音を教えるHearing & Speech
Centerの教授が教えてくれるクラスで、母音の発音などのトレーニングだった。
あとは家庭教師のレッスン。 発音のクラスでもお世話になったHearing & Speech Centerの学生さんに来てもらっていた。 最初のTutorは、女性で、野菜や果物、動物の絵が描かれたカードを使って単語を覚え、その単語を使って文を作ったりという簡単なことからはじめた。(^^;) 彼女は、だんだん学業やデートに忙しくなったのか(^^;)来なくなってしまったので、次ぎは既婚の男性の学生さんにお願いした。 彼はまじめな方で、主にアメリカで使われているイディオムを教えてもらった。 最後の年には、もう一人女性の家庭教師をお願いしたが、彼女は面白い人だった。名前からして、ホリー・クロスと言い、今でも本名だったのかと思う(^^;)。ドイツから養子としてもらわれてきたとも言っていたし、、、。 とにかくお茶目でユニークな方でした。 帰国する時は、二人とお別れするのが悲しかったです。(T_T) と、これだけ書くと、さぞ英語が上手に話せるのだろうと誤解されるかもしれないですが、アメリカで暮らしたからといって英語は身体に染み込んで来てはくれない。 TOSHITAKA:TOMOは喋るのはイマイチだった...が、アメリカにきた時は何一つ解らなかった英語が、一年も経たないうちに、私の理解できないアメリカ人同士の英語の会話が何時の間にか解っていて、私はひとり寂しく会話に加われないことがしばしばあったなあ。TOMOのI-HOUSEの効果大なのか、それとも私の英語の才能がなかったのか...でも、日本人がウヨウヨしていた大学と家の行き帰りでは英語が生活の中に入っていなかったように思えたなあ...と、独り慰めるのであった(^^;) 初めてのドライブ アメリカに来てから早や4ケ月半が過ぎ、デパートに注文したカーペットも届きそれを敷き詰めると部屋の中も落ち着いた雰囲気になった。それにしても、一週間でお手元にと言われたカーペットが、届くまで一ヶ月もかかって、アメリカでは日本の感覚では暮らしていけないのだとつくづく思った。(^^;) 車がきてから20日間ばかり、どこにも出かけなかったので、隣町のノースカロライナ州アッシュビルにあるビルティモアハウスという豪邸に行った。 5年の年月をかけて1895年に完成した豪邸は、12500エーカーという広大な敷地を持ち、四季折々の花が咲き乱れるGARDENが美しい。 建築家のRichard Morris Hunt という人が、フランス・ルネッサンスの城のスタイルで、その当時の最新技術の粋を集めて建築したそうな。一階と地下のガイドツアーがあり庭も見学できた。 とにかく広いのに驚いた。 100年近くも前に建てられたとは思えない設備で、かなりの費用と人手がかかったのでは、と計算してしまった(^^;) 宴会場やビリヤードの出来る部屋など、VIP接待のための屋敷でもあったのかと思う。地下にプールやボーリングが出来る設備があり、ベッドルームもいくつあったのやら、、、。(^^;)客室や、家族の部屋にくらべ、使用人の部屋が質素だったのが印象的。一度こんな家に住んでみたいとも思ったがお掃除が大変そうだなぁ(^^;) アッシュビルまでの道は、山越えの道で、かなり曲がりくねっていてTOSHITAKAは運転に疲れたようだった。 私も、こちらで免許とらなくちゃ~(^^;)
運転免許取得、が、超こわいDriver誕生(^^;) というわけで、TOMOは、TOSHITAKAに教えてもらって運転免許の取得を目指すことにした。
テネシーでは、ライセンスを持っているいる人が同乗していれば練習してもかまわないことになっており、スクールには通わず、家族などが教えて免許を取るのが一般的だったのだ。 まず 広い場所に行き、車の動かしかたを教わる。夏休みで、大学校内はもぬけの殻状態で、農学部の敷地は広大なキャンパスに運転練習用として適当に曲がった舗装された道路があり、車の練習には最適だった。 車というものには全く縁がなく自転車にも乗った事のないTOMOだったので、動くだけで恐くて、車に乗られている感じだった。
TOSHITAKA:こんな事、書くと本当だと思うじゃないか。本当は親切、丁寧に教えました!! ドライビングの実技の試験も、コースを指導員の言う通りに運転して帰ってくるという簡単なもの。 コ-スはお決まりのコ-スのため同じコ-スを何度も繰り返し練習し、縦列駐車やバックもなく、日本のような難しい試験ではなかったため、すんなり合格。 なんと 試験料8ドル(約1000円)で免許を取ってしまった(^^;) あまりに簡単に免許を取得したため、街中での運転は恐くて、旅行に行った時に広くてまっすぐで車の姿が見当たらない時にだけ運転をした。 日本に帰ってから外免の書き換えで、日本の免許も貰ったが、技術が伴わず運転の練習中に電信柱の支えにぶつかり(^^;)、バンパ-はなんの損傷もなかったが、それがお陰で、ラジエ-タ-やク-ラ-系統が故障し、20数万円の修理代がかかってしまい、それ以来運転はしていないのでした(^^;) |